2007/10/10 (Wed) あの山はどこへいきましたか
5月以来、積読列挙記事がないことに気付いた。
最後の列挙には、いまでは既に読み終えた本がある。それに、新たに買った本は、随時列挙しているが、総合して発表していない。もちろん、冊数はより膨大になった。
なので、今週末にも更新する。
『なしくずしの死』は、併読の影響もあって、まだまだ読み終わらない。だからといって、冗長さなど、みじんもない。いつも持ち歩いているので、本が汚れたり傷んだりしてきた。
最後の列挙には、いまでは既に読み終えた本がある。それに、新たに買った本は、随時列挙しているが、総合して発表していない。もちろん、冊数はより膨大になった。
なので、今週末にも更新する。
『なしくずしの死』は、併読の影響もあって、まだまだ読み終わらない。だからといって、冗長さなど、みじんもない。いつも持ち歩いているので、本が汚れたり傷んだりしてきた。
2007/05/19 (Sat) 何もしない
1ヵ月以上、記事を書かなかった。さらしておいても意味はない、いっそ閉鎖してしまおうと思っていたのだが、記事を書くことと同じくらいに閉鎖の手続きをするのが億劫で、ずっとそのままにしておいた。
まあ、以前のようなペースで記事を更新し続けるつもりはないが、多くて2週間に1度か、ぽつりぽつり、と書いていかないこともない。
まあ、以前のようなペースで記事を更新し続けるつもりはないが、多くて2週間に1度か、ぽつりぽつり、と書いていかないこともない。
2007/02/17 (Sat) 改題をめぐって
ブログの名前を変えた。以前から変えようかと思っていて、それはだいぶ前の記事中にも書いたことではあるけれど、なぜ今まで変えなかったのかというと、最後の踏ん切りがつかなかったことと、それなりの文句が思いつかなかったということが理由だ。
基本的に人に見せることを目的に置いていないのに「それなり」とか「適当」とかを気にしてしまうのはやっぱり矛盾なのかもしれないけれど、矛盾ではあってもこれはすごく小さいところでのものだし、そういうところに食い違いを見つけても、それを踏み越えるというか、あえて目を向けないというか、もうひとつの理屈を引っ張りだしてきて正当化してしまうというかそういうことをしながら誰かは毎日を過ごしているんだろうけれど、私の場合それが出来なくて、だからこんな最初の一文で済んでしまうようなことをこんなにも、最初の一文を補う意味で、といってもただの自己満足と言われてしまえばそれまでなのだけれど、こういうものを媒介として不特定多数の人に自分のことを、自分の考えていることを、自分の身の回りことをさらすというか、見させることが普段圧迫されているエゴというほど大袈裟なものではないかもしれないけれど、そういうものを解放する手段になっているのは事実で、でもこういう場を築いて沢山の記事を連ねたところでそれが普段自分を圧迫しているその何かを取り去ってくれるわけではない、当然ながら、それは自分の目の前にあり続けるし、昨日より大きくなっているかもしれないのに、それに立ち向かうことを選ばずに、立ち向かえないという場合もあるし、正体すらそれが一体何者なのか判らない場合だってあるし、むしろその方が多いかもしれない、いや、それは自身が作り出した幻にすぎないのかもしれない、その判断を少しずつ掘り進める一助になりうるのだろうか、だからこそこういう風潮が起こるのかもしれないけれど、それではその鬱屈したものをきちんと吐き出すことが出来るのかということが問題になってくるし、これは他者に立ち向かうより遥かに難しいということは明白で、その鬱屈したものをすらすらと書き並べることに喜びを見出すのはそもそもどうしてなのだろう? なぜ美しくなければならないのだろう? やはりそこに言葉が入り込んでくるのか? 一字、一句はその全体にどれほどの影響を与えるのだろう? いや、そもそもそこに「細部」なんて存在してるのか? そこに美しさとか拙さを見出し、引っ張り出してこなくてはいけないのか? その印象が優劣なんてものを分けることになると一体どんなことが起こるのだろう? それが、文章として現れ出たものにどう作用するのだろう?
その判断には多分二種類あって、それは書いた本人がする判断と、本人以外の人物がする判断だ。前者は、それがどの程度エゴをつかみきれたかという点に基づいて成される、ということに簡単に片付けられてしまうものではなくて、そもそも書いた本人が、自分の文章に対してとやかく言うのはない方がいいとは思うけれど、もっと大きな問題が別のところにあって、実体のないものが、後から現れ出た実体のあるものによっていくらでも変わってしまうのではないかということなのだ。歪められてしまう、という表現を用いてもいいのかもしれない。どうしようもないことではあるけれど、その実体のあるものが、親の姿を捉えようとするあまり、似ていることが良いこと、となってしまうと、親を都合の良いように変えてしまうんじゃないかということだ。
やっぱり文字にすることでそのものが捉えられているかどうかなんて判らないんだ、書いた本人には。抑え付けられていたエゴは、文章が成ったあとでもずっと抑え付けられるわけだし。
じゃあ、どうして私は小説を読むのか? 小説に救いを求めているのか?
ここでは、歪める、という言葉に否定的な意味合いを込めているわけではない。という風に断ると、なぜここでこのような文を付け加えたのかということが他者によって色々と解釈される。他者によって下される判断のことについては、また後で…
それでは、私のこのブログも、この文章も、本当に私を捉えられているかいないかなんて判らないじゃないか? 本当のことがどこに眠っているのか? いや、そうすると何をもって真実と成すのか、また問題になってくる…
基本的に人に見せることを目的に置いていないのに「それなり」とか「適当」とかを気にしてしまうのはやっぱり矛盾なのかもしれないけれど、矛盾ではあってもこれはすごく小さいところでのものだし、そういうところに食い違いを見つけても、それを踏み越えるというか、あえて目を向けないというか、もうひとつの理屈を引っ張りだしてきて正当化してしまうというかそういうことをしながら誰かは毎日を過ごしているんだろうけれど、私の場合それが出来なくて、だからこんな最初の一文で済んでしまうようなことをこんなにも、最初の一文を補う意味で、といってもただの自己満足と言われてしまえばそれまでなのだけれど、こういうものを媒介として不特定多数の人に自分のことを、自分の考えていることを、自分の身の回りことをさらすというか、見させることが普段圧迫されているエゴというほど大袈裟なものではないかもしれないけれど、そういうものを解放する手段になっているのは事実で、でもこういう場を築いて沢山の記事を連ねたところでそれが普段自分を圧迫しているその何かを取り去ってくれるわけではない、当然ながら、それは自分の目の前にあり続けるし、昨日より大きくなっているかもしれないのに、それに立ち向かうことを選ばずに、立ち向かえないという場合もあるし、正体すらそれが一体何者なのか判らない場合だってあるし、むしろその方が多いかもしれない、いや、それは自身が作り出した幻にすぎないのかもしれない、その判断を少しずつ掘り進める一助になりうるのだろうか、だからこそこういう風潮が起こるのかもしれないけれど、それではその鬱屈したものをきちんと吐き出すことが出来るのかということが問題になってくるし、これは他者に立ち向かうより遥かに難しいということは明白で、その鬱屈したものをすらすらと書き並べることに喜びを見出すのはそもそもどうしてなのだろう? なぜ美しくなければならないのだろう? やはりそこに言葉が入り込んでくるのか? 一字、一句はその全体にどれほどの影響を与えるのだろう? いや、そもそもそこに「細部」なんて存在してるのか? そこに美しさとか拙さを見出し、引っ張り出してこなくてはいけないのか? その印象が優劣なんてものを分けることになると一体どんなことが起こるのだろう? それが、文章として現れ出たものにどう作用するのだろう?
その判断には多分二種類あって、それは書いた本人がする判断と、本人以外の人物がする判断だ。前者は、それがどの程度エゴをつかみきれたかという点に基づいて成される、ということに簡単に片付けられてしまうものではなくて、そもそも書いた本人が、自分の文章に対してとやかく言うのはない方がいいとは思うけれど、もっと大きな問題が別のところにあって、実体のないものが、後から現れ出た実体のあるものによっていくらでも変わってしまうのではないかということなのだ。歪められてしまう、という表現を用いてもいいのかもしれない。どうしようもないことではあるけれど、その実体のあるものが、親の姿を捉えようとするあまり、似ていることが良いこと、となってしまうと、親を都合の良いように変えてしまうんじゃないかということだ。
やっぱり文字にすることでそのものが捉えられているかどうかなんて判らないんだ、書いた本人には。抑え付けられていたエゴは、文章が成ったあとでもずっと抑え付けられるわけだし。
じゃあ、どうして私は小説を読むのか? 小説に救いを求めているのか?
ここでは、歪める、という言葉に否定的な意味合いを込めているわけではない。という風に断ると、なぜここでこのような文を付け加えたのかということが他者によって色々と解釈される。他者によって下される判断のことについては、また後で…
それでは、私のこのブログも、この文章も、本当に私を捉えられているかいないかなんて判らないじゃないか? 本当のことがどこに眠っているのか? いや、そうすると何をもって真実と成すのか、また問題になってくる…
2007/02/06 (Tue) 福笑い〜孫の手習い(7)
このブログの記事は最近、積読紹介と月末の読了作品紹介だけになってきてしまった。まあ、もとからあまり人に見せることを意識していないし、そのような旺盛なサービス精神なんて生まれつき欠けている。
とはいっても、ひとつここでこのブログを見る人にとって少しでも積読の変化を追えるようにしたいと思う。それによって書くことになる記事の数も少なからず増えることになるから。
基本的に毎月中旬に更新する膨大な数の本が並ぶ積読記事であるが、その膨大さゆえに、何が増えて何が読まれたのかが全く判らない。
そこで、数冊新しく本を買うごとにその何冊かの本を挙げようと思う。「あたらしい積読」というカテゴリを新設しよう。この「あたらしい積読」記事中でも、簡単にその時の読書状況などを書いていく。
とはいっても、ひとつここでこのブログを見る人にとって少しでも積読の変化を追えるようにしたいと思う。それによって書くことになる記事の数も少なからず増えることになるから。
基本的に毎月中旬に更新する膨大な数の本が並ぶ積読記事であるが、その膨大さゆえに、何が増えて何が読まれたのかが全く判らない。
そこで、数冊新しく本を買うごとにその何冊かの本を挙げようと思う。「あたらしい積読」というカテゴリを新設しよう。この「あたらしい積読」記事中でも、簡単にその時の読書状況などを書いていく。
2006/12/23 (Sat) 五目並べ〜孫の手習い(6)
先日から、プロフィール欄に「いま読んでいる本」と「次に読む本」とを書いている。ただ後者はそのときの気分によってすぐに何度も変わるし、本を読み終えていざ次に何を読むかということに直面すると、「次に読む本」としてここに挙げていた本が実は真っ先に排除したくなってしまう性分なので、なぜそんな気分になってしまうのかと考えてみたら、ひとつに限定されていることがその原因だと判った。
だから、「次に読む本」という欄を廃止し、その代わりに積読の中から特に気になっている複数の本を「これから読む本」として挙げることにする。そのいくつかの中から次に読む本を選んでいく。複数あれば、どれかには引っかかると思っている。「これから読む本」欄を作った意味を保ちたい。
現在、『ロリータ』は面白いけれどなかなか進まない。なんとか明日までには読み終えたい。
だから、「次に読む本」という欄を廃止し、その代わりに積読の中から特に気になっている複数の本を「これから読む本」として挙げることにする。そのいくつかの中から次に読む本を選んでいく。複数あれば、どれかには引っかかると思っている。「これから読む本」欄を作った意味を保ちたい。
現在、『ロリータ』は面白いけれどなかなか進まない。なんとか明日までには読み終えたい。
