2007・02

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2007/02/17 (Sat) 改題をめぐって
 ブログの名前を変えた。以前から変えようかと思っていて、それはだいぶ前の記事中にも書いたことではあるけれど、なぜ今まで変えなかったのかというと、最後の踏ん切りがつかなかったことと、それなりの文句が思いつかなかったということが理由だ。
 基本的に人に見せることを目的に置いていないのに「それなり」とか「適当」とかを気にしてしまうのはやっぱり矛盾なのかもしれないけれど、矛盾ではあってもこれはすごく小さいところでのものだし、そういうところに食い違いを見つけても、それを踏み越えるというか、あえて目を向けないというか、もうひとつの理屈を引っ張りだしてきて正当化してしまうというかそういうことをしながら誰かは毎日を過ごしているんだろうけれど、私の場合それが出来なくて、だからこんな最初の一文で済んでしまうようなことをこんなにも、最初の一文を補う意味で、といってもただの自己満足と言われてしまえばそれまでなのだけれど、こういうものを媒介として不特定多数の人に自分のことを、自分の考えていることを、自分の身の回りことをさらすというか、見させることが普段圧迫されているエゴというほど大袈裟なものではないかもしれないけれど、そういうものを解放する手段になっているのは事実で、でもこういう場を築いて沢山の記事を連ねたところでそれが普段自分を圧迫しているその何かを取り去ってくれるわけではない、当然ながら、それは自分の目の前にあり続けるし、昨日より大きくなっているかもしれないのに、それに立ち向かうことを選ばずに、立ち向かえないという場合もあるし、正体すらそれが一体何者なのか判らない場合だってあるし、むしろその方が多いかもしれない、いや、それは自身が作り出した幻にすぎないのかもしれない、その判断を少しずつ掘り進める一助になりうるのだろうか、だからこそこういう風潮が起こるのかもしれないけれど、それではその鬱屈したものをきちんと吐き出すことが出来るのかということが問題になってくるし、これは他者に立ち向かうより遥かに難しいということは明白で、その鬱屈したものをすらすらと書き並べることに喜びを見出すのはそもそもどうしてなのだろう? なぜ美しくなければならないのだろう? やはりそこに言葉が入り込んでくるのか? 一字、一句はその全体にどれほどの影響を与えるのだろう? いや、そもそもそこに「細部」なんて存在してるのか? そこに美しさとか拙さを見出し、引っ張り出してこなくてはいけないのか? その印象が優劣なんてものを分けることになると一体どんなことが起こるのだろう? それが、文章として現れ出たものにどう作用するのだろう? 
 その判断には多分二種類あって、それは書いた本人がする判断と、本人以外の人物がする判断だ。前者は、それがどの程度エゴをつかみきれたかという点に基づいて成される、ということに簡単に片付けられてしまうものではなくて、そもそも書いた本人が、自分の文章に対してとやかく言うのはない方がいいとは思うけれど、もっと大きな問題が別のところにあって、実体のないものが、後から現れ出た実体のあるものによっていくらでも変わってしまうのではないかということなのだ。歪められてしまう、という表現を用いてもいいのかもしれない。どうしようもないことではあるけれど、その実体のあるものが、親の姿を捉えようとするあまり、似ていることが良いこと、となってしまうと、親を都合の良いように変えてしまうんじゃないかということだ。
 やっぱり文字にすることでそのものが捉えられているかどうかなんて判らないんだ、書いた本人には。抑え付けられていたエゴは、文章が成ったあとでもずっと抑え付けられるわけだし。

 じゃあ、どうして私は小説を読むのか? 小説に救いを求めているのか?

 ここでは、歪める、という言葉に否定的な意味合いを込めているわけではない。という風に断ると、なぜここでこのような文を付け加えたのかということが他者によって色々と解釈される。他者によって下される判断のことについては、また後で…
 それでは、私のこのブログも、この文章も、本当に私を捉えられているかいないかなんて判らないじゃないか? 本当のことがどこに眠っているのか? いや、そうすると何をもって真実と成すのか、また問題になってくる…
 

2007/02/13 (Tue) 新書への賭け
 最近買った本。

ウディ・アレン『これでおあいこ』
高見広春『バトル・ロワイアル』
橋爪大三郎『はじめての構造主義』
ミラン・クンデラ『無知』


 今日、カズオ・イシグロの『日の名残り』をやっと読み終え、右上にあるとおりフランツ・カフカ『審判』を読み始めた。

2007/02/06 (Tue) 喜劇王の自伝からSF、ソシュール言語学まで
 前回の積読列挙記事から現在までで、新しく買った本を記憶している限り。

【あたらしい積読文庫】   
有島武郎『小さき者へ・生れ出づる悩み』
      『一房の葡萄』
伊坂幸太郎『ラッシュライフ』
市川浩『精神としての身体』
志賀直哉『小僧の神様・城の崎にて』
谷崎潤一郎『谷崎潤一郎 犯罪小説集』
       『人魚の嘆き・魔術師』
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『若きウェルテルの悩み』
マクシム・ゴーリキー『ゴーリキー短篇集』
ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』
アルトゥル・ショウペンハウエル『読書について』
チャールズ・チャップリン『チャップリン自伝』(上下)
ギュスターヴ・フロベール『三つの物語』
ロバート・A・ハインライン『スターファイター』
ヨゼフ・ピーパー『余暇と祝祭』
フリードリヒ・ド・ラ・モット・フーケー『水妖記』

【あたらしい積読新書】 
五木寛之『知の休日』
内田隆三『テレビCMを読み解く』
町田健『ソシュールと言語学』

【あたらしい積読単行本】 
芝崎みゆき『古代ギリシアがんちく図鑑』
高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』

 取りこぼしがあるかもしれないが、まあ1回目は仕方ない。
 
 この「あたらしい積読」記事中では、入手出来てすごく嬉しかった本、衝動買いした本などに下線を引くことにする。 

2007/02/06 (Tue) 福笑い〜孫の手習い(7)
 このブログの記事は最近、積読紹介と月末の読了作品紹介だけになってきてしまった。まあ、もとからあまり人に見せることを意識していないし、そのような旺盛なサービス精神なんて生まれつき欠けている。
 とはいっても、ひとつここでこのブログを見る人にとって少しでも積読の変化を追えるようにしたいと思う。それによって書くことになる記事の数も少なからず増えることになるから。
 基本的に毎月中旬に更新する膨大な数の本が並ぶ積読記事であるが、その膨大さゆえに、何が増えて何が読まれたのかが全く判らない。
 そこで、数冊新しく本を買うごとにその何冊かの本を挙げようと思う。「あたらしい積読」というカテゴリを新設しよう。この「あたらしい積読」記事中でも、簡単にその時の読書状況などを書いていく。

 

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いま読んでいる本:

舞城王太郎
『ディスコ探偵水曜日』(上)
(新潮社)





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